八珍柿

【理事のつぶやきシリーズ】

河野です。

私が11歳まで暮らした新潟県長岡市にあった父の生家には、大きな柿の木が2本ありました。

1本は『八珍柿』、もう1本は『美濃柿』です。

『八珍柿』は、新潟県産の「平核無」という品種の渋柿で、今は民謡「佐渡おけさ」から名付けられた『おけさ柿』という名前の方が一般的なようです。

しかし、私にとっては今も八珍の方がしっくりきます。

種が無い『八珍柿』は大変珍しいので、越後七不思議に続く、八つめの不思議・珍品で『八珍柿』というのだと子どもの頃に聞かされた覚えがあります。

もっとも、越後七不思議は七つとも限っていないそうですが(笑)。

興味のある方は、ぜひ『越後七不思議』について調べてみてください。なかなかに興味深い七不思議です。

『美濃柿』は文字通り岐阜県美濃地方で古くより作られてきた柿で、これも渋柿です。

筆毛のような形をした大ぶりの柿で、干し柿にして食べていました。干し柿にされなかった柿は、そのまま木守り柿として収穫されずに晩秋を迎え、掴むと潰れそうなほど柔らかくなった頃には渋もすっかり抜けて美味しくなっていました。

柿の収穫は、我が家の一大行事でした。

物干し竿の先に布製の虫取り網のような袋を取り付けた自家製の柿もぎ道具を使って収穫するのですが、木の高いところに実っている柿は地面からは届きません。

そこで父は屋根に上がって、そこから柿をとっていました。

とった柿はロープを結んだ籠に入れられ屋根から、するすると降ろされてきます。

その籠を受け取って大きな籠に柿を移し入れるのが、子どもの私の仕事でした。

空になった籠を屋根へと引っ張り上げ、再び柿でいっぱいになった籠が降ろされてくるのを、私は今か今かと待ち構えていました。

その作業が何度も繰り返され、大きな籠に溢れんばかりのきれいな橙色の柿の山ができあがるのでした。

いつか大人になったら屋根に上がって父のように柿をとりたいと思いながら、首が痛くなるほど柿の木を見上げていたものです。

収穫が終わると、今度は母と『八珍柿』の渋抜き仕事です。

渋抜きの方法はいろいろあるようですが、我が家では柿をきれいに拭いたあと、ヘタのくぼみに吸い飲みで焼酎を少し垂らし、大きな瓶の中にきれいに並べ、瓶の口まで丁寧に積み重ねたらビニールで覆いしっかり密封し、木の蓋をかぶせ渋が抜けるのを待ちました。

2週間ほどで渋は抜けますが、待ちきれない私は「まだ? まだ食べられない?」と、毎日のように母に尋ねていたものです。

もういいよと言われて食べた八珍柿は、どんな果物より美味しくて家族みんなの大好物でした。

その柿の木とも、家族で長野に引っ越した時にお別れし、今はもう無くなってしまいました。

柿は買って食べるものになり、ここ数年は、私がお店に並ぶ『おけさ柿』を買っては、年老いた両親のところに届けていました。

母がその柿を最後に食べたのは入院する少し前だったでしょうか。

仏壇に今年初めて買ってきた『おけさ柿』を供えながら、「父にはあと何回食べさせてあげられるかなぁ」とぼんやり考えた2025年の秋でした。